下町柚子黄昏記 by @yuzutas0

したまち発・ゆずたそ作・個人開発の瓦礫の記録

デジモンが20周年を迎えたので熱く語る #デジモンの日

本日8月1日は「デジモンの日」と呼ばれている。 さらに今年2017年は、初代デジタルモンスターのゲーム発売から20周年に当たる。

そこで(おそらく誰もついてこられないだろうが)デジモンについて熱く語りたい。

f:id:yuzutas0:20170801212144j:plain (わざわざ撮影したぞ、お台場メモリアル)

もくじ

短編小説『デジモンテイマーズ1984

せっかくなので、絶版になった『デジモンテイマーズ1984』という短編小説を読むことにした。 図書館検索によると都内に3冊あることが分かったので、問い合わせて書庫から取り出してもらい、読んでみた。

シリコンバレー発・OSSプロジェクトとしてのデジタルモンスター

このSF小説は、2001年に放送されたアニメーション作品である『デジモンテイマーズ』の前日譚という位置付けだ。

80年代に若手研究者たちが集まって、OSSプロジェクト「デジモン」を作り上げていく。 彼らはパロアルトの大学(おそらくスタンフォード)の博士課程に所属するメンバーで構成されている。

子供がスケッチブックに描いた空想の生き物を、プログラミングによって電脳世界に射影する。 粗いドットではあるが、画面上で人工生命体が動くのを見て、ひらすら楽しんでいる。 モンスターたちは搭載されているAIに従い、野生の動植物と同じように、デジタルワールドで生存競争を繰り広げる。

「電子頭脳による命ある生物の創造」として、当時の人工知能であるセルフオートマトンノイマン)やライフゲームコンウェイ)にも言及している。 それゆえに「ゲーム的な性質」を持つのは必然だとソフトウェアエンジアリング担当は論じる。

また、当時は巨大なコンピュータの先にあるものとして「ノートブックで開いて眺める」インターフェースのコンセプトが提唱された時期であった。 しかし、むしろ「ネットワークそのものに入り込む感覚」が適しているのではないか、と作中のデザイン担当は考える。 結果として、現代のスマートフォンに近い(ユビキタス的な概念を支える)UIとして、携帯ゲーム機のような小型端末を考案する。

SF(サイエンス・フィクション)としてのデジタルモンスター

ここからがSF展開となる。

ほとんどのメンバーは、アプリケーションレイヤー上での人工生命体を見て満足していた。 ただ1人「SHIBUMI」と呼ばれるメンバーだけは別の野望を持っていた。 彼は他のメンバーの隙を見て、とあるプログラムを混入させる。

結果として、開発者たちが想定していなかった事態が起きる。 画面の向こうの架空の生き物のはずなのに、深夜の研究室には唸り声が響き、デスクには爪痕が残される。 プロジェクトは凍結されるが、既にオンライン上にデータは広まっていたのだった。

現実世界への侵食、そして本編へ……

ここからアニメ本編につながる。

デジタルモンスター(ならびに削除プログラム)は、ネットワークの奥底で、人知れず自己進化を遂げていた。 15年の沈黙を経て、2001年のリアルワールドに実体化。人類は危機に陥る。

その危機に対抗する実行部隊はアニメの主役である子供達だ。 しかし、その根本解決策を立案・支援するのは、当時のOSSコミッターである大人たちとなる。

改めて作品を見直すと、大人には大人の戦いがあることが垣間見える。

  • 子供達を危険な目に合わせている事実。
  • 過去に自分たちが作った仮想生命体が世界に危機をもたらしている事実。

そういったものと向き合って苦悩しているのである。


これらの裏設定については、小説の著者であり、3作目のアニメ監督である小中千昭氏のホームページに年表が記載されている。 はっきり言って、主な視聴者である子供には、理解が難しい舞台設定だと思う。

サマーメモリー的解釈

同じように、大人の視点で見直してみると、シリーズ全体を通して読み取れることがある。 一言でまとめると「郷愁」だ。ここでは便宜的に「サマーメモリー的解釈」と呼ぶことにしよう。 考察ではなくあくまで解釈である。

なお、1999年〜2002年まで放映された初代4部作のアニメーション作品(アドベンチャー・02・テイマーズ・フロンティア)を対象に考察する。 また、映像・台詞と同様に重要な構成要素である音楽(その場面に流れた歌)についても引用する。

「進化」とは何だったのか

一連の作品を通して、重要なキーワードは「進化」である。 ゲーム作品としてはモンスターが強くなるわけだが、青春物語としてはもう1つの意味を持つ。

テイマーズ(3作目)の主人公が「僕ももっと進化しなくちゃ」という発言をしている。 これは人間的な成長を意味している。 つまり「子供の成長」と「パートナーデジモンの進化」は連動している(比喩表現である)ことが読み取れる。 「なりたい自分 夢に見るのは 誰にも頼めない」のである。

「なりたい自分」になれなかった者たち

一方で、テイマーズの主人公は「進化して強く大きくなると、友達でいられなくなる」ことを懸念する描写がなされている。 大人になってしまうと、かつての友達と、友達のままでいられなくなってしまうのだ。

特に作中前半では、子供たちの敵対者として大人が描かれていることも影響している。 主人公の担任教師は「どうして先生になったの」と問われて「安泰だから」「私には向いていない」「どうしろっていうのよ」と小学生に当たっている。 そのエピソードの挿入歌では「ボクたちもいつか大人になるの?」「わからないフリしていたんだ」と流れる。

また、アドベンチャーの黒幕は「進化できなかったデジモンたちの怨念の集まり」である。 それまでは「子供たち」サイドの成長を軸に描写されていた。 最終決戦で初めて「子供たちの敵」サイドの心情が提示されたのだ。

続く2作目(02)では、「子供たちの敵」である「闇」サイドに焦点が当てられる。 兄に虐待を受けたのと同じように、他者を暴力で支配して、電脳世界を支配しようと目論む少年。 自分が「破壊行為を目的として人為的に作られた」と自覚して、自分の存在意義に戸惑うデジモン。 さらに決定的なのが「子供の頃にデジタルワールドに行くことを夢見ていた」大人が、その願いを叶えるために、黒幕(の代理)として一連の事件を引き起こした点だろう。

郷愁・回想・回顧・懐古・憧憬

2作目以降に強調されるのは「大人」の側面である。 「02」の最後に、「アドベンチャー」「02」という作品が、大人になった登場人物(の1人であるタケル)による回想だったことが提示される。 アニメではナレーションという形式を取っていたが、冒険譚を記した著者による語りだったのだ。

余談だが『ウォーゲーム』や『スタンドバイミー』のように80年代の作品を元ネタにしたエピソードは多々見受けられる。 ちょうど2000年頃のアニメを作った人たちが10代だった頃の作品だ。例えば細田守氏はその年齢に該当する。 そう考えると、ある意味では大人が過去の自分に向けた作品なのかもしれない。

このことを如実に反映しているのが、劇場作品3作目で、「戻れない過去」がテーマとなる。 舞台はアメリカの「サマーメモリー」という架空の土地。 敵は作中で(幼い頃のあの日に)「帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい」とひらすら連呼する。

そのEDテーマ曲は「スタンドバイミー - ひと夏の冒険」で、「いつか見た映画のように線路は続いていく」という歌詞。 該当の映画、スティーブン・キングの『スタンドバイミー』は、大人になった主人公が子供の頃の冒険を回想する話。 まさに02と同じ構造である。 一緒に冒険をした友人たちは、亡くなっていたり、疎遠になっていたりする。 線路を人生と解釈すると「窓越しに変わる景色」はもう取り戻せず、その上で「線路は続いていく」のだ。

なお、劇場3作目の敵は、過去に戻れないことを悟り、なおかつやり直すこともできない状況となり、最終的には自ら消滅を選ぶ。

自ら扉を閉ざすという選択

このシリーズには他にも「子供の頃の夢を捨て切れなかった大人」が出てくる。 前述した「SHIBUMI」もその1人である。

電子生命体による現実世界への侵攻を防ぐことがミッションの「ネットワーク管理局」の人間は、SHIBUMIを「大人になりきれていない」と評している。 彼は研究仲間たちの中でただ1人、量子テレポーテーションによる「リアライズ」(=モンスターの現実世界への物質化)や、デジタル世界に行くことを、20年間ずっと夢見ていた。 他のメンバーは、「できるわけがない」と一笑に付し、時の流れの中でデジモンの存在を忘れていた、にも関わらずである。

ウォルト・ディズニーが言うように「どんな洗練された大人の中にも、外に出たくてしょうがない小さな子供がいる」のだ。 そして02の黒幕(代理)である「及川」や、テイマーズの「SHIBUMI」は、その「子供」を自意識から追い出しきれなかった存在と言える。

しかしその「SHIBUMI」も、リアル世界に侵食した削除プログラム(デ・リーパー)を退化させるため、自ら2つの世界の扉を閉じる選択をする。 そのことで(本人の意図した結果ではなかったが)子供たちとデジモンのお別れという形でテイマーズは幕を閉じる。

子供たちの1人は明確に「お父さんはこうなるってことが分かってて」(あえて選択したのか)と大人を批難する。 同時に「今は分からない でも分かる日が来る いつかきっと」「誰も分からない でもそれでいいんだ 今はきっと」とも感じているのだ。

この結末はどういう意味を持つのだろうか。 「現実世界」(社会)のために、自分が守りたかった「子供の頃に憧れた世界」を捨てるということなのだろうか。

「大人」を超えるために必要だったもの

もう1度振り出しに戻ろう。 最初に以下のように述べた。

つまり「子供の成長」と「パートナーデジモンの進化」は連動している(比喩表現である)ことが読み取れる。

アドベンチャーでは、明確にデジモンの進化フェーズと、必要なものが提示されている。

  • 成熟期(大人)になるには「食事」(エネルギー)や「パートナーを守りたいという意思」(成長への欲求)が必要
  • 完全体(理想の自分)になるには「紋章の輝き」(後述)が必要
  • 究極体(理想を超えた自分)になるには「愛する者の願い」(後述)が必要

「大人」を超えたあとは、2つのフェーズがある。

まずは「理想の自分」になるフェーズ。 その「進化に必要な紋章」とは、1人1人が「小さい頃に本来持っていた個性」だと解説されている。 中盤にて主人公たちは「いつの間にか見失ってしまった自分らしさ」を取り戻すことになる。 1度は大人になり、その上で、子供の頃の自分を取り戻すことで「理想の自分」になれるのである。

さらに「理想を超えた自分」になるフェーズ。 アドベンチャーでは、愛する家族の力を借りることが必要だと(遠回しに)言い伝えられていた。 ジョグレス体(02)やハイブリット体(フロンティア)も同じで、自分以外の誰かの力を借りている。 ジョグレス体は、まさに合体で、他者との交わりである。 ハイブリッド体は、古代のスピリット(=受け継がれた思い)と一体化するのである。

これは『7つの習慣』で述べられている内容と同じである。 まずは「自分にとって大切なものは何か」と問い直し、自己を再発見する。 その上で「他者との相互作用」を経て、ようやく自己実現がなされる。

予定調和を超えるための「何か」

短編小説『デジモンテイマーズ1984』では「エンテレケイア」という存在について解説している。 アリストテレスが提唱した後、生気学者ドリーシュによって再解釈された概念だ。 本編では「クルモン」と呼ばれた存在だが、それだけに留まらない。

「エンテレケイア」とは、進化を促すものだ。 予定調和を超えさせるものであり、「外側から生命を与えるもの」である。 そしてそれは「この(現実)世界にいくらでもある」ものだ。

アドベンチャーでの老人(ゲンナイ)の言葉からも同じメッセージが読み取れる。 子供達に対して「進化そのものに正しいも誤りもない」と釘を刺しているのだ。 子供が大人へと変わっていく中で、正しい成長というものは存在しない。 「生き方に地図なんてないけど、だから自由 どこへだって行ける」のである。

死と再生の循環

では、「なりたい自分」になれなかった者たちは、どうだったのだろうか。

02の「子供の頃にデジタルワールドに行くことを夢見ていた」及川が消滅する場面に注目したい。 ここで流れる曲名は『Sun goes down』(日が沈む)で、「誰にも言えないほどの壊れそうな悲しみでも 君だけの特別な宝物だ」と言う。 そして「明日は違う色の世界をきっと照らすから」「君はいつでも生まれ変われる」のである。

これは死と再生の物語だ。 まさに作中では「デジタマ」という概念が表現している。

サマーメモリー的解釈においては「子供」(自己)と「大人」(世界)の循環を意味する。 自分らしい自分で居られない状態とは、自己の欠落であり、個性の損失であり、自分の人生を生きていないということであり、それはつまり死なのである。 その上で、死と再生(=自己の再発見)を循環するのである。

外部影響があるから大人(成熟期)になる。 そして、内なる自分らしさを取り戻して理想の自分(完全体)になる。 そして、外にいる他者との繋がりを経て自己実現(究極体)が達成される。 この内的発見と外部発見のスパイラルが、人間的成長、つまり進化なのである。

ゆえに、「02」(第2作)の最終決戦後に描かれた「大人」(闇)の消滅、「テイマーズ」(第3作)の最終決戦後に描かれた「子供」(光)の消滅とは、果てしない螺旋における1つの踊り場にすぎないのである。

旅の終わり

他の作品が親子の関係性を描いているのに対して、4部作最後のフロンティアでは大人の描写がほとんどない。 代わりに、大人に翻弄されて生き別れた双子のエピソードがある。 やはりここでも大人とは子供の世界を乱すものなのだ。

だが、子供たちはそれ以上に「選んだのは誰でもないさ 俺たち自身だったろ」と前向きな主体者として描かれている。 これは「自己実現」を達成して、他者に対して影響力を及ぼす存在であることを意味している。

また、フロンティアでは、子供たち全員に平等に見せ場は与えられていない。 一部のヒーローと、サポートする立場に分かれている。完全な役割分担制になっているのだ。 これはむしろ「大人」らしい描写に見える。同時に、自然な「子供」らしさとも言える。

最終作にほとんど大人が出ないのは、一連の4部作を(大人が大人に対して問いかける)「子供時代を取り戻すための旅」としたときに「本作がその旅の終着点だから」と言えよう。

はてしない物語

なお、4部作最後のED曲は『an Endless tale』である。 これは1984年(これも!)に上映された映画『Neverending Story』(邦題『はてしない物語』)と同じ意味である。

原作小説の『はてしない物語』は、前半は英雄譚だが、後半は異色の展開となっている。 特別な力を得て英雄になった主人公が自分を見失って暴走する。 だが完全に消滅する直前に、それまでに出会った友人を通して、本当の自分を取り戻す。 そういうシナリオだ。 まさに「大人になって個性を見失う」「他者を通して再発見・自己実現する」という解釈が可能な作品である。

そして、EDの歌詞は「たくさんの出会いとさよならが道しるべさ 僕らの」で閉じる。 この世界に溢れているエンテレケイアを通して「冒険は進化する」のだ。

デジタルパートナーと共に歩む未来

ここからは自分語り。

価値観や幸福の定義が多様化した社会においては、ビジョンが求められる。 そして「私たちが子供の頃に憧れたXXX」という言葉は、1つのビジョンになりうると思っている。

空想の世界におけるOSSコミッターたちが熱中したように、私もデジモンのようなものを作りたいと思った。

  • あるいは、モンスターよりはロックマンエグゼのナビゲーターの方が適切だろうか。
  • あるいは、ドラえもんのような(四次元ポケットはないけどWEB上で必要な情報を取り出してくれる)良き先輩であり、相談相手であり、親友のような存在だろうか。
  • あるいは、サマーウォーズの(『僕らのウォーゲーム』から細田監督が展開した)OZのような世界観だろうか。

何かそういう「10年後に当たり前になっているかもしれないもの」を形にしたいと思った。

そこで試しに生活支援のチャットボットを作ってみたりもした。 だけど、もっと本格的なデジタルパートナーを、OSSプロジェクトとしてやってみたい。

ただ便利なだけでなく、自分らしい生活を送るための支援者としてのデジタルパートナーを作ってみたい。 子供たちがパートナーデジモンと出会って自分の個性を取り戻したような。そんなパートナーだ。 ストレス社会で、コーチング・メンタリングの重要性が注目されている社会的文脈とも合致するように思う。

初代のアニメ放送が1999年。あれからもうすぐ20年。 20年前、私たちが子供の頃に描いた理想の自分になっているだろうか。 理想の20年後の世界を実現できているだろうか。

せめて今からでも、20年後に向けて、何かできないだろうか。


というポエム。 せっかくの夏の夜ですので。

自分でも正直キモいと思ったのですが、たまにはこういうのも風情があっていいかなぁということで投稿します。